自分を不完全な存在だと思い込むトランスジェンダーの女性が新たな一歩を踏み出そうとする姿を描いた短編映画。詩人・文月悠光の詩を原案に、ゲイ老人の性と苦悩を描いた「老ナルキソス」で高く評価された東海林毅監督がメガホンをとった。トランスジェンダーの新谷ひかりは、周囲との間に言葉にできない壁を感じながらも、同じくトランスジェンダーの友人・千秋や会社の上司である中山、同僚の辻ら理解者に恵まれ、東京で一人暮らしを送っていた。そんなある日、出張で故郷の街を訪れることになったひかりは、高校時代の同級生・久田敬に現在の自分の姿を見て欲しいと考え、勇気を出して連絡するが……。自身もトランスジェンダーであるファッションモデルのイシヅカユウが映画初主演を務めた。
片袖の魚評論(4)
「トランスジェンダーになるとこういう事が起こりますよ」を並べただけのデモ映像という感じでした。
劇中で起こる出来事それぞれに物語的繋がりはみられず、その先に何か展開がある訳でもありません。
ではそのぶつ切りの「出来事」単体で何か訴えかけてくるものがあるかと言われても、巷で既に知られてる「トランスジェンダーあるある」レベルなので特にそれもありません。
観た後に残るものが無いです。
役者の演技の拙さもそれに拍車をかけてるのは明らかでしたが、そこには製作者の狙いがあるそうなので後述します。
ここからは作品の背景込みの感想になります。
この作品が作られた経緯は、1年前に公開され日本アカデミー賞を受賞した「ミッドナイトスワン」から語らざるを得ないでしょう。
当時、草薙君がトランスジェンダー役を演じる事で話題になった「ミッドナイトスワン」ですが、一部の当事者や活動家からは批判があった様です。
「トランスはいつも不幸な役回りばかり」
「いつもシスジェンダーの役者がトランス役を演じるのはおかしい」
「草薙君のトランスの演技は当事者を馬鹿にしている」
「トランスの人々の描き方が実体験に則していない」
といった批判が主でした。
それらの批判が的を得ているかは置いておくとして、本作の監督である東海林監督もそれに同調し「ミッドナイトスワン」を批判した上で、自分で「当事者によるトランス映画」を作る決心をした様です。この辺りの経緯は東海林監督のTwitterで確認できます。
ここで疑問なのは、「当事者性」を気にする割には東海林監督自身が当事者ではない事です。
インタビュー記事によると東海林監督はシスジェンダー男性のバイセクシャルであり、その属性は実はトランスとはなんの関係もありません。(LGBTとよく一括りにされますが、L、G、B、Tそれぞれ全く違いますし、LGBは性指向の話であるのに対してTは性自認の話です)
「トランス役は当事者に」という考え方は議論の余地こそ十分にありますが、言い分は理解はできます。
しかしその論理で行くなら、監督こそトランス当事者であるほうが理念に則すのではないかと思います。
「ミッドナイトスワン」に「非当事者性」を見出し、批判をした上で作った割には主張に一貫性が見られず残念でした。
また、その弊害は本編にも表れており、
「ひかりが帰郷する前に、女性物の服や靴を鏡の前で当てがって微笑むシーン」が長めの尺で挟まれるのですが、どうしても「オジサンが勝手に想像した“女の子らしい”行動」にしか見えないんですよね。
仮にひかりが身体違和からトランスしたのであれば”女性物の服“に対する拘りだけで当事者性を表現する事は不適切です。
監督が「ジェンダー」と「セックス」を混同している様に見えました。
最近では”トランスジェンダー“は「アンブレラターム」で、性同一性障害だけでなく趣味の女装の人も含まれるそうですから、あのシーンも「女装好きな人」として見れば理解は出来なくもないですが..
丁寧に描いてるつもりが描き切れていない点に、監督が非当事者が故の解像度の低さを感じました。
その辺は、批判されていた「ミッドナイトスワン」の方が丁寧に描かれていたと思います。
またこの映画のメインディッシュとも言える「トランスジェンダーならではの出来事」も紋切り型で、特に深みも感じませんでした。
活動家の畑野とまとや三橋順子を筆頭にヒアリングを重ねていた様ですが。
当事者から様々なエピソードを引き出し、物語に落とし込んでいた「ミッドナイトスワン」の方がこの点も優れていました。
本作は製作決定後、「日本映画史上初のトランス当事者のみのオーディション」を開き、その結果主役の座を勝ち取ったのがイシヅカユウさんでした。
トランス当事者からのみの選考となると、競争率も落ちるでしょうから、演技の拙さにも納得がいきます。
p.s. 同窓会の後にひかりがボールを背後からぶつけるシーン、男友達達はひかりにとって嫌な事をしたかった訳ではなく、この映画のテーマでもある無自覚な加害性(マイクロアグレッション)を持っていただけなのに対し、ひかりは「背後からボールを投げつける」という明確な加害性で答えるのは脚本としてどうなんでしょうね。
無自覚な非当事者からすれば突然の暴力ですし、客観的には男友達側が被害者です。
「明確な加害性に至る程に抑圧されているんだ」と言いたいにしても、アレではトランスジェンダーの危険性しか伝わらないのではと思いました。
この監督自身が社会へのメッセージとして映画を作ってる節もあるので突っ込まざるを得ない..
本来なら“ただのワンシーン”で済ませれるんですが..
東京で「魚関係」の仕事をする体は男性、心は女性で女性として暮らす主人公が、仕事で久しぶりに地元へ帰り、昔の仲間と会うことになるストーリー。
自分はトランスジェンダーではないけれど、あまり語られたくない過去の出来事や、思いや痛みはあって然るべきで、直接描かれていることとはイコールではないけれど、感じるものはあったしなかなか良かった。
トランスジェンダー当事者が、当事者役を演じることで話題になっている映画。淡々と主人公ひかりの日常が描かれるが、その中で何気なくかけられる言葉が彼女の生活を深いところに沈めようとする。理解がまだまだ進まないこの社会で、トランスジェンダーの人々が存在するということ、そしてそのあり方も多様であり、個々それぞれに当たり前に違う人生、生き方があるということ。生まれ持った”違い”ゆえに、無意識に誰かを傷つけていないか、ひかりが投げたボールは社会全体に対して、そして自分に対しても向けられているように感じた。多くの人に、今見て欲しい。ミッドナイトスワンで感動した人にこそ、こちらの映画を観て、作品が生まれた背景や描写に思いを馳せて欲しいと感じました。